少し横道へそれる。
そのころ(昭和二十八、九年)のぼくは、多いときは七誌もの歌謡同人誌に投稿していた。月刊もあり、季刊に近いものもあった。相変らずの似たようなひとりよがりのうたばかり書き、締切に追われ、会費にさえも追われる、薄給の下級公務員だった。
同人誌上で、伊吹とおる(当時唐崎まさはる)、水木かおる、星野哲郎、秋田泰治の皆さんの名前を知ったのもそのころだ。
昭和二十八年九月、水木さんからはじめてハガキをもらった。ぼくの初レコード「異人屋敷の夢の花」をラジオで聞いたと知らせてくれたのだった。
十一月には星野さんからやはりはじめてのハガキが来た。「歌謡に志を持ち、養鶏のマネゴトをして、文化水準の低い島にいる…」と十数行も小さな文字でこまごまと書きこまれていた。
水木さんとはじめて逢ったのは、翌二十九年五月、R誌の東京詩話会に上京したときだ。やさしい笑顔だった。このときぼくはそれまでの女の筆名をやめて本名で詩を書くことにきめたのだ。
六月、大阪中之島の中央公会堂で行われたE歌謡学院の発表会で、秋田さんとはじめて逢った。初対面と思えない親しみがあった。
山口県大島からこまめにハガキをくれた星野さんとは、お互いにこまごまと書き込んだハガキのやりとりが大分続いた。タイトルプレゼントなどもした。ぼくは「外人墓地の青い花」というタイトルを送り、星野さんは「山査子の丘」をくれた。
九月、当時五円のハガキに水彩えのぐのイラスト入りで星野さんの「外人墓地の青い花」が届いた。
甃石(しきいし)の 冷たさ
忍び寄る わびしさ
外人墓地の 雨の日
面影に 逢いに来た ……
という、シャンソン風の繊細な詩だった。それにくらべてぼくの「山査子の丘」は書くには書いたが全くボロボロの詩だった。
その月末近く、台風十五号で青函連絡船洞爺丸が転覆した。
十月、ぼくは二十六歳になった。
雪うさぎの少女の留守の家を訪ね、もう来ないでほしいとの手紙を受取ったのがその月だった。
月末から二週間、ホームソング「秋のささやき」がラジオから流れた。本名で書いたはじめての放送作品だった。「南沢純三作詩」というアナウンスが耳に心地よくひびいた。
十一月、伊吹さんから「北斗星」創刊の案内と誘いをうけた。参加することに決めた。それが現在まで三十五年にわたる「北斗星」とぼくのつきあいのはじまりだった。創刊号の昭和三十年一月号には、
青いセーヌに 青い月
風はミモザの 肌ざわり ……
と、自分では格好をつけたつもりの「巴里の夜は更けて」という作品を送った。会費は二百円だった。
十二月十七日、前日風邪で裁判所を休み出勤すると、雪うさぎの少女から電話があったと知らされた。電話をしてほしいとのことだった。まだのども痛み、熱っぽく体調が悪かったせいか、余り心の動揺はなかった。電話をしてくれというのだからと一度かけてみた。そのひとは席を外していた。名前だけを伝えておいた。或いは向うからかかってくるかと思ったがかからなかった。その日のぼくはそれどころではなく、出勤しているだけでせい一ぱいだった。
その後も電話はなかった。ぼくもかけなかった。
十二月末、「北斗星」創刊号が届いた。平成二年三月で四二三号になる、その第一号だ。
同人十二名、作品十八篇での発足だった。
裏表紙に同人の住所氏名が並んでいる。今も残っているのは、伊吹、水木、南沢の三人だけだ。
昭和二十九年は、そうして終わった。
昭和三十年になった。
一月三日に届いた年賀状の中に、そのひとからのもあった。ぼくが出したからくれたのだろうけどうれしかった。
「新しい年をむかえ、新しい気持で自分の道におはげみください…」と書かれていた。
季節は冬から春になって行ったが、ぼくの作詩は低調だった。他の人たちの詩のよさだけがやたら目についた。「北斗星」を含め同人誌の来るのが待遠しいくせに、あけて見るのにいつもためらいがあった。
四月二十九日はそのひとの誕生日だった。おめでとうというみじかい手紙だけを出した。
そのひとはどんどん遠去かって行くのに、忘れてしまいたくはないという気持が、まだ強くのこっていた。
(平成2年3月)
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