雪うさぎ

雪うさぎ(10)/南澤純三


 土曜の朝のテレビのワイドショーは、大阪制作のものが多い。オープニングにうつる大坂の街を見るのも、週に一度のひそかなたのしみである。

 いろいろとあって遠くなってしまったそのひとに、友人のI君の手からクリスマスプレゼントを渡してもらったのが、昭和二十七年十二月末だった。
 翌日は御用納めだった。
 I君の事務所を訪ねようと、淀屋橋の交叉点へさしかかった。丁度そのとき信号が変って、向うからくる人波の中にそのひとがいた。はっと思った一瞬ぼくは方向転換していた。そのひとは女友達と一しょだった。せめて一人だったら、或いは勇気を出して声をかけていたかもしれない。そのひとは気づいたのか、気づかなかったのか、それすら確かめる余裕もなく、ぼくは別の道へそれてしまった。
 I君と逢い、二人でミナミへ出た。
 千日前は年末らしく一ぱいの人出だった。その人ごみの中で、I君がそのひとを見つけた。I君が声をかけた。ぼくはI君のうしろに立ったままだった。気づいたそのひとは「昨日はどうもありがとうございました」とぼくに言ったが、心なしかどことなく冷たかった。I君が映画にさそったが、今日は急ぎますからと去っていった。ぼくは一言も話せななかった。
 千日前Y座の若い支配人T氏は、ぼくたちより五六歳年上でI君の知人だった。ぼくも友だちの友だちは友だちということで知り合い、よく映画を見せてもらっていた。その日は他の映画観へ顔パスで入れてもらい、昭和二十七年は寂しく終った。
 昭和二十八年を迎えた。
 劇団をやめて、のこるは作詩だけとなったぼくはそのころ四誌位の同人誌に投稿していた。「雨の唐人屋敷」とか「月の港のオランダ船」「南蛮船の港入り」など、ひとつ覚えの長崎ものばかり書いていた。
 そして一月末の土曜の午後、ミナミのデパートの古本展でそのひとを見かけたのだ。(雪うさぎ(1))すぐ声をかける勇気が出ず、ためらっているうちに見失ってしまい、そのひとはまた遠くなってしまった。
 二月にぼくのうたがはじめてラジオで放送された。朝日放送ABCホームソング「春の南京町」だった。とび上がるような気持で、知人に知らせまくった。そのひとにもハガキで知らせた。
 三月、場末の映画館に、もといた劇団の連中が出演した超篇映画「私は騙された」が上映されていたので見に行った。映画自体は覚せい剤撲滅キャンペーンのお役所映画で、つまらないものだったが、そのひともチラと出ており、そのひとの煉瓦色のコートを着て出演したMさんの姿もあり、とてもなつかしかった。
 そのひとには、ときどき自作の手作り詩集を送ったり、誕生日にお祝いのみじかい手紙を出したりするだけになってしまった。返事はこなかったが、忘れたくないという気持ちはずっと糸をひいていた。
 九月にはじめてのレコードが出た。野村雪子唄マーキュリーレコード「異人屋敷の夢の花」だった。そのひとにも知らせた。
 返事はこなくても、詩集は送りつづけていた。遠くなるばかりの雪うさぎの少女だったが、忘れられても忘れたくはなかった。
 みじかいしあわせだった頃の日記を、何度も読返したりしていた。
 月日は流れて行った。
 また一年が過ぎて、昭和二十九年秋になった。
 九月二十八日だった。
 裁判所から帰ると一枚のハガキが来ていた。そのひとからだった。うれしいショックだった。民芸の「炎の人」の券を送ってくれたとき以来だから、二年九か月ぶりのそのひとの文字だった。
 どきどきしながら文面を目で追った。
 お父さんが、長い病気の後、五月に亡くなったそうだ。もとの住所に一人で暮らしており、終りに「お気が向きましたら遊びにお越し下さい」とあった。
 転居通知などに印刷されている「近くへお越しの節はお立ち寄り下さい」という、形式的な文章なら、軽々しく訪ねるべきではないぐらいなことは、ぼくも知っていた。しかしこのハガキは、そのひとがぼくを呼んでくれたのだと受取った。
 逢いたいと思った。
 もう一度あの白い微笑みに逢いたい。せつないくらいそう思った。

(平成元年12月)

 


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