雪うさぎ

雪うさぎ(9)/南澤純三


 三十数年も前のつまらない話を、くどくどと書いている。何人か読んで下さる方があり、ありがたいことだと思っている。なぜ昔ばなしを書くのかという本当のところは、なあに、いつか息子に読ませたいという、ただそれだけのことだ。

 昭和二十七年二月二十六日、そのひとに手紙を出した。今までのこと、K子さんのこと、そして今の気持もすべて書いた。返事がほしいと言いたかったのに、それが書けず、結局わかれを告げる手紙になってしまった。
 それでも、もしかして返事をくれるのではないか、いや、ぜひ返事がほしいという気持でもあった。
 三月はじめ、貸してあった詩集をK子さんが返しに来た。そのひとから電話があり、ぼくに返事を書くつもりだったが、どう書いていいかわからないので、やはり書かないことにする、とのことだった。電話があったら、ぼくが電話してほしいと言っていたと、伝えてくれるよう頼んだ。
 ぼくが電話すればいいのだが、あの手紙でさよならと言ってしまったあとでは、やはり出来なかった。
 劇団もいやになり、ずるずる休みつづけていた。
 劇団の書類の中から、そのひとの履歴書をだまってぬきとり、もらっておいた。
 小学校、中学校ずっと優等賞と書かれていたのが、うれしく思えた。
 四月、日本航空の「もく星」号が、伊豆大島三原山に墜落した。
 劇団にも出かけず、作詩にもやる気をなくし、二十三歳のぼくは、ただ機械的に裁判所と家とを往復するだけの人間になってしまっていた。
 そのひとの誕生日は四月二十九日だった。
 その前日、キャンデーを入れた木彫りの箱と、手作りの詩集とを包み、そのひとの誕生日のプレゼントを用意した。
 銀行へ電話した。そのひとは少し事務的な口調だったが、それでも昼休みに銀行へ行くからと言うと、お待ちしますと言ってくれた。
 昼、銀行の通用口へ行った。そのひとは女友達と一しょに出て来た。一人で来てくれなかったのは、わけもなく淋しかった。
 「どうも……ごぶさた……」と言ったが、その先思っていたことが何一つ言えず「あした誕生日でしょう」と包みを渡した。
 そのひとは仲々うけとってくれなかった。そばに友達がいるので、ぼくはなおあがってしまい、無理に渡して「さよなら」と逃げるように帰った。
 暑いのと、あがったこととで汗をかいた。裁判所へ帰って顔を洗った。
 そのひとは少しも変わっていなかったようにも思えたが、又変わってしまったようでもあった。
 白い微笑みは以前のままだった。そのひとは僕をどう思っているのだろうか。淋しさはあったが、ひとつ重荷をおろしたような気分だった。少し元気が出た。
 しかしそこまでだった。それっきりそのひとからも連絡はなく、ぼくも積極的になれず、ただ悶々としたままそのひとは遠くなった。

 六月、誘われてはじめて歌謡同人誌「K」に入った。ペンネームはまだ江川恵子だった。
 九月、裁判所の研修で大津へ行った。そこで集団食中毒に遭い、下痢患者多数のうち、ぼくともう一人は疑似赤痢で入院させられてしまった。
 十日間の隔離病棟ぐらしの中で作詩した「異人屋敷の夢の花」が、のちにぼくのはじめてのレコードになった。
 研修は二か月続き、この間に大阪大学医学部ではじめて死体解剖の見学もした。睡眠薬自殺をした三十代の女性だった。

 秋になった。十一月三十日だった。春に結婚したK子さんに子供が生まれたと聞き、訪ねてみた。二日前に男の子が生まれたと、お母さんが話してくれた。「おめでとうございます」とだけ言って帰った。
 ぼくはまるで生活力もなく、結婚など考えられなかったが、その日は雪うさぎの少女がとても恋しく、とても得難いひとに思えた。
 十二月になった。一年前の冬がなつかしかった。劇団はやめてしまっていたが、演出部のI君とはよく逢っていた。彼にたのんで、自由日記と手作り詩集のクリスマスプレゼントを、そのひとに渡してもらった。自分で訪ねる勇気はもうなかった。
 「彼女、色が白いなぁ」と、戻ったI君は感心していた。

(平成元年11月)

 


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