そのころ、二十三歳のころのぼくは、惚れっぽい人間だった。しかし相手に対してただ好きだという思いがあっただけで、具体的な結婚ということなどは考えられなかった。すべての面で幼かった。
そのひとのコートのポケットに黙ってチョコレートを入れた翌日、他の用でそのひとに電話した。コートを受取って帰る途中で気づいたそうだ。笑い合って受話器をおいた。
二三日たった朝、K子さんと同じ電車に乗り合わせた。文学座の券を買ったかと聞かれ、「マリウス」「ファニー」「セザール」の三部作を三枚共たのんだ。その日のK子さんはうす化粧でさわやかだった。
一体ぼくは本当は誰が好きなのか、雪うさぎの少女に傾きながらも、K子さんにもまだひかれるものがあり、うろうろしていた。
そのひとに手紙で話そうと思い、途中まで書いたが、また迷って破ってしまった。電話をしてもいそがしそうだと、もう次に電話することがためらわれた。劇団で逢っても何か話しかけにくく、そのひとの方もこっちを無視してるような様子に見え、なお手も足も出なくなってしまうぼくだった。
そんなくり返しが何日かあった後、やっとの思いでそのひとに電話した。銀行は月末でいそがしく当分は毎日遅くなるということだった。逢ったとしても、何を話すのか、「好き」という一言が本当に言えるのか、その自信もなく、適当につくろって電話を切った。
口でも言えず、手紙も書けず、ただ逢って歩く機会もなくて、ぼくはひとりでだんだん落ち込んで行った。全く自分勝手な若ものだった。
昭和二十七年二月になった。
二月二日K子さんと文学座の「マリウス」を見に行った。風の冷たい日だった。
そしてその翌日、のちにK子さんと結婚する劇団演出部のK君と、K子さんの家で出くわした。K君が先に帰ったあと、その気配を感じてK子さんに結婚するのではと、何度か聞いたが笑って否定されてしまった。
そのころ、先日劇団から数人でうけた民放ラジオ局のオーディションは、全員駄目だったと知らされた。
二月八日、この日もやっとの思いでそのひとに電話した。近くそろばんの試験があるので昼休みはその練習、夜は生花で、劇団へ行くのも遅くなるとのことだった。口実を作って避けているのではないと思っていても淋しかった。
そして、とうとう二月九日になってしまった。
土曜日だった。午後毎日会館へ文学座の「ファニー」を見に行った。K子さんは少し遅れてきた。
開幕直前、何気なく見まわすと同じ座席の列の左十席ほど向うにそのひとが来ていた。風邪なのか白いマスクをしていた。開幕のベルが鳴った。ハッとしたが、どうしようもなかった。K子さんにそのことを指で知らせた。
幕間にK子さんがそのひとのところへ行った。何か話していたが、そのひとはぼくの方を見ようとはしなかった。まずいことになってしまったという思いだけで、どうすることも出来ず、ぼくはただ前を見ていた。
幕が下りた。そのひとの姿はもうその席になかった。
K子さんとの帰り、下車した駅になぜかK君がK子さんを待っていた。やはり二人は結婚するのだろうと思った。
散々な一日だった。すべて自分のあいまいさから生まれた結果であり、誰のせいでもなかった。
翌日劇団演出部のI君から、K子さんとK君の結婚話の経緯を聞いた。
その翌日K子さんと逢い、今までの気持ちやそのひとのことをみんな話した。
K子さんはそのひとに逢ってもう一度よく話し合ってみたらと言ってくれたが、簡単にそう出来るものなら、こんなにもたもたしていない。しかしやはりそのひとにすべてを話さなければ、何も解決しないとは思っていた。
K子さんとK君の間でも、いろいろもつれた話があり、まきこまれかけ、迷ったりして二月も終るころ、やっと決心した。
そのひとに手紙を書いた。
今まであったこと、K子さんのことも、自分の気持もすべて洗いざらい書いた。
終りに「ただあなたの気持ちがわからないまま、ということだけが心残りですが、それももう諦めています。さようなら、どうかお幸せに──」と、結局わかれを告げる手紙にしか書けなかった。
そう書きながらどこかに一縷の望みを託していた。
(平成元年10月)
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