雪うさぎ

雪うさぎ(7)/南澤純三


 七月下旬、私用で大阪へ行った。何年ぶりかの大阪だった。そして何年ぶりどころではない、三十数年ぶりかで淀屋橋に行った。夜だった。土佐堀川の川風が爽やかだった。思い出のある東京銀行大阪支店の前まで行ってみた。夜でまわりがよく見えなかったせいか、淀屋橋も銀行も御堂筋の銀杏並木も、みんなが昔のままのように見えた。

 昭和二十七年一月十七日、やっとの思いで雪うさぎの少女に電話した。かけるまでどれだけためらったことだろう。今でもそういうところがあるが、二十三歳のぼくはそれだけのことすら簡単に出来なかった。
 五時に銀行の通用口で逢う約束をした。
 昨日劇団の友人に頼まれ、何人かからお金を借りてやった、そのひとからも借り、その分を返すのが口実だった。
 昨日までとうって変った明るい笑顔でそのひとが出て来たので、ほっとして気が楽になった。借りたお金を返すと「このためにわざわざ来て下さったんですか」と聞かれた。それには言葉をにごし「帰りは何時ごろになりますか」と尋ねた。「さあ、何時になるか……まだ一寸わかりません」という返事に、ぼくが何となくぐずぐずしているので、そのひとは「何でしたら今帰りましょうか」と言ってくれた。
 仕事が本当に残っているらしいし、それに急用があるわけでもないので「いや、それじゃ六時ごろにまた来ますから……」「あ、そのころだったら帰れます」と言うそのひとの言葉で、やっと約束が出来た。
 はっきりと言わない、てきぱきと出来ないのは、ぼくのわるいくせだった。
 梅田新道から桜橋の本屋を歩いて時間をつぶした。
 六時、銀行の通用口へ行くと、そのひとは守衛さんと話しながら待っていてくれた。
 一しょに御堂筋へ出た。何となく立止まると、そのひとは「梅田まで歩きましょうか」と言った。ぼくは逆方向になんばまで歩くかなと思っていたのだが、言葉に出せなくて返事をしないでいた。その素振りに気付いたのか「そっちへ行きましょうか」と、そのひとの方からなんばの方へ歩き出してくれた。
 ぼくは本当に厄介な、扱いにくい男だった。
 銀杏並木の御堂筋をミナミへ向って並んで歩いた。すっかり日が暮れて風が少し冷たかった。「気持ちいいわ」とそのひとが言った。
 ぼくはその日、そのひとに好きだと言うつもりだった。しかし結局切り出せなかった。それでもそのひとと又親しくなれたことで、それなりに満ち足りていた。
 人通りの少ない、広い歩道を歩きながら、とりとめのない話をしていた。そのひとはいつもよりよくしゃべり明るかった。ぼくは話を聞いているだけ、一しょに歩いているだけでよかった。冬の夜の御堂筋はしずかでしあわせだった。
 淀屋橋、本町、心斎橋と歩き、一時間余りでミナミへ着いた。道頓堀通りへ入り古本の天牛書店を二軒のぞいた。千日前で市電を待ちながら「今日は引っぱり出し、ただ歩かせただけですみませんでした」と言うと「たまには気持ちいいわ」とそのひとは微笑んだ。
 上六へ行く市電の中で「昨日劇団で、あなたの髪がとてもきれいでした。うつむいていたから髪ばかり見てました。本当は今日話すことがあったのですが、もういいんです、またそのうちに話します」と、やっとそれだけ言ってほっとした。それがせい一ぱいだった。
 上六で別れた。そのひとも気のせいか、いつもよりあたたかい笑顔を見せた。
 そのひとと歩いたというそれだけのことで又人生がバラ色に輝いてしまった。ぼくはどうしてこう単純なのだろうと思った。
 翌日、劇団でMさんが、そのひとから借りた煉瓦色のコートを返すために持ってきていた。そのひとは休んでいた。大阪市の教育映画に劇団から何人か出演し、そのためにMさんが借りて使ったコートだった。ぼくはそのひとから頼まれていたからと言って預かった。又逢う口実が出来た。家へ帰りハンガーにかけ「おやすみなさい」と声をかけて眠った。
 翌日そのひとに電話した。コートのポケットにチョコレートを入れ「おみやげ ワレモノ注意」と書いておいた。そのことは言わず、昼休み裁判所へとりに来てくれたそのひとにコートを渡した。
 ポケットのチョコレートに気がついたときの、そのひとの笑顔を想像しながら、ぼくも口笛を吹きたいような気分になっていた。
 雪うさぎの少女は、近くなり、遠くなり、又近くなって、ぼくの心を熱くさせていた。

(平成元年9月)

 


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