雪うさぎ

雪うさぎ(6)/南澤純三


 劇団民芸が、今年の秋十三年ぶりで「炎の人〜ゴッホ小伝」を上演すると新聞にあった。滝沢修のゴッホも、昭和二十六年の初演以来上演数二八三回目に及ぶとか。雪うさぎの少女にもらった券でぼくが大阪毎日会館で見たのは、昭和二十七年一月九日だから、初演直後のことだ。

 昭和二十七年一月七日、そのひとと映画を見て帰宅すると、そのひとからの手紙がきていた。「炎の人」の座席券が入っていた。逢っているとき、前に見せてもらった感想文のノートをもっと見せてほしいと言うと「いや」とあっさり断られ、少し失望して別れて帰ったところだったし、手紙や券のことは一言も言わなかったので、余計うれしかった。
 翌日すぐ電話した。「昼休みに淀屋橋で……」とだけ約束してすぐ切った。昼、そのひとは友だちと一しょにやってきた。期待はずれだった。「昨日帰ったら、お手紙きてました。どうもありがとう。あなたも人がわるい、そう言っておいてくれればいいのに……」と言ったが、そばに友だちがいるのでどうも思うことがうまく言えず、三人で少し中の島公園を歩いてすぐ別れた。
 裁判所へ帰ると間もなくそのひとから電話がかかってきた。「先程はすみませんでした。お友だちを一しょにひっぱって行って。一寸した用かと思っていたので……」と、やっぱりそのひとはわかっていたのだ。「いいえ、そんなことはいいんです。でも昨日は本当にありがとうございました」と答えながらも、心づかいがうれしかった。
 「どんなものが恋愛と言い得るのかわからない」とノートに書いていたそのひと。そのひとに恋をしているぼくだった。
 裁判所の同室の女の子たちから「この間一しょに歩いてたひと、可愛らしいひとね。いくつ……」なんて聞かれると、すっかり有頂天になって、聞かれもしないのに東京銀行につとめているひとだなどと、ぺらぺらしゃべってしまうぼくだった。
 夜、劇団のけいこ日だった。そのひとは少し遅れてきた。脚本の本読みをしながらも、火鉢にかざしたそのひとの手の先を見ていた。きれいな爪だった。恋をしている目で見るからだったのかもしれない。
 帰り、火鉢の火のあと始末をするそのひとを手伝って、二人で水道の水で炭火を一つ一つ消しながら「今日はどうもすみませんでした」「いえ、こっちこそ」とお互いに同じことを口に出していた。
 一月九日はひとりで「炎の人」を見てきた。滝沢修のゴッホがナイフで切り裂くひまわりの絵は、当時チャーチル会の人たちが模写した油絵を舞台毎に一枚宛切り裂いていたのだそうだ。
 毎日そのひとのことばかり考えていた。
 何度か電話したが、いつも銀行の仕事は忙しそうだった。夜の劇団のけいこにも遅れてくることが多かった。
 借りていた本を返すのにかこつけて又電話し、夕方銀行の通用口で逢った。「ラジオ小劇場脚本集」を返した。そのひとの顔を真正面から見ていた。白い頬、ほほえむ瞳、やさしい口元……。雪うさぎの少女は、ぼくの心をどうしようもなくとらえてしまっていた。
 土曜日に又電話し、映画へ誘ってみたが、行きたくなさそうな口ぶりで、素気なく、ぼくの方からやめにしてしまった。ぼくは少し落ちこみはじめていた。
 劇団でも何かしらつめたい感じのそのひとだった。ぼくの方も誰に対しても余りしゃべらなくなっていた。
 そのひととMさんと三人で上六までの帰り道、Mさんは気にして「南沢さん、どこかおわるいんですか」と聞いてくれた。そのひとは無言だった。上六で別れるとき「さよなら」とだけ言ってチラと見た。そのひともチラと見ただけだった。
 その時は全然気がつかなかったのだが、あとで考えてみると、劇団でK子さんが結婚するという噂が流れ、その相手は家も近所で親しそうにしている南沢君だろうという話になり、ぼくの知らない間にそのことがひろがっていたのだ。演出のO君から尋ねられるまでぼくは全然知らなかった。その噂は多分のそのひとの耳にも入っていたのだと思う。
 そのころ新しく出来た民放のラジオ局へ、劇団からオーディションをうけに行った。他の劇団からもきていた。男女三十名位だった。放送台本でのセリフのテストだった。何とぼくが一番先に当たってしまった。もう夢中だった。アクセントも間違えず、言い直しもしなかった。まあまあの出来だった。
 まだぼくは、「演劇」と「作詩」との二つの道を迷っていながら、一つに決められずにいた。

(平成元年8月)

 


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