ぼくの本籍地は東京である。墨田区石原四丁目なのだが、そこに誰がいるわけでもなく、何があるわけでもない。祖父の代からのものがそのまま残っているだけのことである。
むしろ生まれ育った大阪、三十何年をすごし、恋をし、失恋を重ねた大阪の街に、今もふるさとを感じている。
雪うさぎの少女とはじめて二人で映画を見たその夜、お好み焼屋でいろいろ話をした。
お父さんは人が良すぎて年中貧乏しているとか、強情なところも私と同じだとか、楽しそうに話してくれた。勤め先の銀行の革表紙の手帳ももらった。
ぼくは歌謡詩を書いていること、それを平凡の「歌の花園」欄に江川恵子という名で投稿していることなどを話した。手作りの小さな詩集をあげ、詩のノートを見せたりした。
途中まで送って行って別れたあとも、心の中はあたたかだった。
帰宅し、いい気分で床につき、少しうとうとしかけた頃、劇団のI君が起こしに来た。駅の近くで劇団の連中が集って忘年会をしているからと誘いにきたのだった。あまり気は進まなかったが、わざわざきてくれたので断りもできず、又起きて出かけた。
駅近くのお好み焼屋に数人が集って、もうみんないいご機嫌だった。その中に紅一点K子さんがいた。彼女については『螢子』にも書いたように、以前からつきあいもあり、心を動かされていたが、今は雪うさぎの少女にも心ひかれており、ぼくの気持はまだゆれ動いている最中(さなか)だった。
酔ってK子さんとぼくの間をひやかす声もあった。そのときもぼくは、さっき別れたばかりの雪うさぎの少女との語らいがまだ胸に残っていた。
適当にみんなにつき合って深夜帰宅した。二度目の床に入り、改めて雪うさぎの少女のことを思い浮かべながら眠った。
昭和二十六年はかすかに幸福の予感を与えて終り、昭和二十七年を迎えた。
一月二日は劇団の初顔合わせだった。
正月なのでみんな盛装して出て来たが、ぼくを含め何人かはいつもと同じ着たきり雀であり、ぼくはその上ボサボサの髪のままだった。
新年の挨拶や、劇団の今年の予定発表などがありすぐ散会となった。みんなが帰りかけたところへ「遅くなって……」と少し息をはずませてほんの少し新春らしい服装をした、雪うさぎの少女がかけつけた。
劇団のけいこ場は上町台地のG寺にあった。帰り道、途中で右へ曲り坂を下ると、道頓堀、千日前などのミナミへ一直線であり、左へ折れるとすぐ近鉄の始発駅上六(上本町六丁目)だった。
ぞろぞろと出てきたその別れ道で、みんなミナミへ行くと言う。ぼくはひとり上六方向へ曲がった。そのひとはどうするのかなとも思ったが、あえて無視して「おつかれさま」と誰にともなく言って歩き出した。
そのひとはさかんにみんなにミナミへ誘われていたが、ふり切ってぼくの後を追ってきた。気配でわかったけれど、みんなの視線を感じていたので、ゆっくりとは歩いたがふり向かなかった。
追いついてきた、そのひとと並んで歩いた。
そのひとにとってはこっちが帰り道であり、又自分の都合でそうしたのだろうけど、ぼくは単純に、みんなをふり切ってぼくの方へきてくれたことがとてもうれしかった。
そのひとは「これ」と言って、机上用の銀行のカレンダーをくれた。そして「この前お話したノート、あちこちに書くので、これには少ししか書いていませんが……」とノートと一しょにぼくの手に渡した。
そう言えばこの前、感想のようなものをノートに書いていると言っていた。ぼくが見せてほしいと言うと、笑ってあいまいな返事しかしなかったので、多分駄目と言うことかと思っていた。それが目の前に出されたので少し驚いた。
心はずんできて、別れるのは惜しい気持だったが、すぐ上六に着いてしまう。近鉄に乗るそのひとに「ノートお借りします。ありがとう」そう言って別れた。うれしかった。そのひとが心を少しでも開いてくれたことで胸があつくなっていた。
帰りの電車の中でノートをひろげた。
見かけの幼い感じより、ずっと物事を深く考えている人だった。自分自身の考え方をしっかりもっている雪うさぎの少女だった。うれしさが体にひろがって行った。
ぼくはまだ二十三歳だった。
(平成元年5月)
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