三月十二日から大相撲春場所がはじまった。テレビの画面に大坂の街が流れる。桜の宮あたりの淀川、その向うに天満橋、天神橋、中之島、北浜あたりのビルなど、昔とは様変りしたとはいえなつかしい風景である。
昭和二十六年十二月二十八日は、会社も官公庁も御用納めだった。
夕方五時、待合わせの約束をしたそのひとは、先に来て淀屋橋で待っていた。「帰りいそがなかったら……」と映画へ誘った。他に何も思いつかないままの月並なせりふだった。
「ええ、いいわ」と雪うさぎの少女は、明るく微笑んでうなずいた。
地下鉄淀屋橋駅への階段を、並んで下りて行った。二人でいるというだけで心はずみ、混んだ地下鉄も一向に気にならなかった。
淀屋橋から本町(ほんまち)、心斎橋を過ぎなんばで地下鉄を降りた。歳末のミナミは混雑していた。
人ごみをぬけて、古い洋画をやっているE小劇場へ入った。ここも満員だったが、好きなひとと映画を見ているという、それだけで満足だった。
映画を見終え道頓堀へ出た。いつものぞく古本屋の天牛書店へ立寄った。
一冊の本を手に、ぼくは「もう少し安ければ……」とつぶやいた。ほしいという思いと少し高いなぁという気持が声に出た。そのときそのひとは、その本を見て「わたしそれ買います。南沢さん先に見て下さい」と、さっさと買ってきてぼくの手に渡してくれた。
今だってあまり変っていないが、そのころのぼくはもっと貧乏だった。それを知っていてのさりげない心づかいがとても嬉しかった。
夜通っていた劇団でも、ぼくは舞台での動きがどうも下手で、次第に声だけのラジオの放送劇に、気持が向きかけていた。しかしそうは言ってもまだテレビなどなかったころだし、そのころの大阪のラジオも、NHKの他にやっと一局だけ民放のラジオ局が放送をはじめたばかりで、その門は狭く、とてもおいそれとくぐれるわけがなかった。
それでも声に出して本の朗読をしたり、脚本の読み合わせをしたりするのは好きだった。アクセント辞典をかたわらによく読んだものだ。大阪で生まれ、大阪弁で育ったぼくが、後年東京ぐらしをするようになっても、大阪弁がすぐ標準語に切替えられたのは、このころのものが体に残っていたからだと思う。
『ラジオ小劇場脚本選集』―――それがその時の本だった。
千日前の天牛書店ものぞいてから市電で上六(上本町六丁目)へ出た。
劇団の連中がいつも帰りに寄るお好み焼屋へ入った。
ささやかなお好み焼でもしあわせだった。
(平成元年4月)
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