雪うさぎ

雪うさぎ(2)/南澤純三


 テレビのマラソン中継を見るのが好きだ。二時間何十分か見続けてもなぜかあきない。特に大阪で行われる国際女子マラソンのコースには思い出のある町が続くので、その感傷もまじってテレビに釘付けになる。
 今年(平成元年)の一月二十九日もそうだった。宣伝会社にいた頃看板を取付けに行った長居競技場付近、一寸格好いい学生帽をわざわざ買いに行った大池橋、一か月程出張していた職員数人の小さな簡易裁判所のあった勝山通、赤煉瓦の裁判所へ通勤のため毎日歩いた。天満橋、天神橋、北浜、中之島へと続く道すじなどと共に、淀屋橋には雪うさぎの少女の思い出が一番色濃く残り、三十数年たった今もなおなつかしい場所である。

 昭和二十六年十二月はじめだった。
 少し親しくなりはじめた雪うさぎの少女から、裁判所へ電話があった。前日ぼくが劇団を休んだので「別に用事はないんですけど」と言いながらも心配してくれての電話だった。受話器をおいてからもそのひとのぬくもりが胸に残った。
 二、三日後の夜、劇団の帰りそのひとと一しょになった。劇団のけいこ場はその頃下寺町のM寺から谷町八丁目のG寺に変っていた。何がきっかけだったのかそのひとは家族のことをぽつりぽつり話してくれた。
 お母さんを早く亡くし、兄さんは中国で戦死、大工をしているお父さんと二人暮らしで 朝食はそのひとが用意して銀行へ出勤し、夕食はお父さんが準備するなどを聞いた。
 私鉄に乗るそのひとと上六(上本町六丁目)の駅前で別れ、ぼくは天満橋行きの市電に乗った。そのひとに心が傾いてゆくのがわかった。
 その頃ぼくは、同じ劇団のK子というひとにも好意を抱いていた。二人を天秤にかけるという気持ちはなかったが、二人の間でゆれ動いていたのは事実だった。
 何かのとき、姉がマッチのラベルを集めていると話した。そのひとは翌日早速マッチをひとかかえも持ってきてくれた。そのひとのかざり気のない心に、だんだん包みこまれてゆくようだった。
 十二月中頃、そのひとははじめてパーマをあててきた。中国の少女のような可愛らしさだった。その夜劇団の帰りに、そのひとの方から話しかけてきた。友達の恋人にぼくに似たひとがいるとか、銀行で男物の靴下をいくつかもらったから一足あげますと貰ったりした。そんな些細なことがとてもうれしかった。まだ二十三歳のぼくだった。
 クリスマスイブ 白い写真立てを二つ買った。一つは自分用に、一つはそのひとにあげるためだった。
 昼休みそのひとの銀行へ行った。「靴下やマッチのお礼です」と言って、写真立てを出した。はじめは遠慮していたが、「それではあっさり貰っておきます」と受取ってくれた。
 夕方そのひとが裁判所へきた。「これ」とだけ言って包みを渡し「私いそがしいから」といたずらっぽく微笑んで、すぐ階段をかけ下りて行った。小さなデコレーションケーキだった。「ありがとう」とぼくはそのうしろ姿に心の中で大きく叫んでいた。
 翌日、劇団の名簿のことでそのひとから電話があった。「あんなことをして貰ったら、又ぼくが何かしなければいけなくなってしまいます」と言うと、「これでもともと、私の方こそありがとうございました」と、白い笑顔が電話の向うに見えるような声だった。
 十二月二十八日は会社も官庁も御用納めだった。
 何度かためらった末、銀行へ電話した。そのひとの声を聞くと又ためらいが出る。しかし勇気を出して「今日は何時頃になったら出られますか」と聞いた。「四時頃……」「四時に帰れますか」「帰るんだったら五時頃です」「じゃあ五時に淀屋橋で待っていますから」「私も今日行こうと思っていました。マッチが又たまってますので……」と、約束が出来てほっとして受話器を置いた。はじめてその人を誘ったので、電話だけでぼくはもう何か疲れてしまった。ぼくにもそんな年頃があったのだ。 夕方の淀屋橋は、ふだんならオフィス街から吐き出された人波が、どっと北の梅田、大阪駅方面へ流れてゆくのだが、さすがに御用納めの十二月二十八日ともなると、昼までの会社が多く、歩く人の数もぐんと減っていた。
 五時、大阪市庁の横を通って淀屋橋に行くと御堂筋の向う側にそのひとが待っていた。遠くから見る待ちびとの姿は心をはずませるものがあった。

(平成元年3月)

 


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