雪うさぎ

雪うさぎ(1)/南澤純三


 昭和二十八年一月末、土曜日だった。
 裁判所は半どんだったので、午後ミナミのデパートの古本展へひとり出かけた。混雑している会場で、となりにいた女性が少しはなれていってから、はっと気付いた。白いマスクをしていたがやはりそのひとだった。古本を順に見ているそのひとの横顔が懐かしかったが、気まずい別れ方をしていただけに声をかける勇気は出なかった。古本の列に目を移し、しばらくしてもう一度そのひとを探したが、もう姿はなかった。
 ただそのひとが一人でいたこと、今も古本を見ていること、その二つのことが心をほっとさせた。
 以前そのひとと行った古本屋、道頓堀と千日前の二軒の天牛書店へ帰りに寄ってみた。鼻づまりの声で「毎度ありがとうございます」と言うおやじさんは、相変らず千日前の店にちょこんと座っていた。

 ぼくが大阪地方裁判所へ勤めながら、見よう見真似で作詩をはじめたり、夜アマチュア劇団へ通ったりしていたのは、それが好きだったからなのは当然だが、今考えると、祖父、母とつながる血のせいもあったようだ。
 昭和二十一年に死んだ祖父は表具師だった。掛軸や額などの表装をする職人で、子供の頃祖父の仕事をいやでも見せられていたので、その手順などはまだよく覚えている。
 その祖父は、ぼくの生まれる前の一時期役者をしていた。旅役者で、台湾まで旅興行に出て、祖母や母を一年もほったらかしにしたこともあったそうだ。無声映画の群小プロダクション乱立時代には、大阪府玉手山にあったあるプロダクションで、敵役の親玉になり、何本もの映画にも出演。その時のスチール写真やフィルムの切れはしの幾駒かは今も残っており、裏に「田宮坊太郎」「梅田雲浜」などと作品名も書かれている。
 祖父の本名は南沢正吉だが、芸名は芳沢信夫といい、その名残りか表にあげた看板は「表具師芳沢尚好堂」となっていた。
 母はもう八十をかなりすぎているが、大阪で健在である。今はやめているが、柳てる葉なんて粋な名前をもつ小唄の名取で、小唄と三味線の師匠をしていた。若い頃にでも習っておけばよかったと少し後悔している。

 横道へそれすぎたようだ。
 話を昭和二十六年、二十三歳のときへ戻すことにする。
 十一月、劇団公演の前日だった。貸しホールで深夜二時まで舞台げいこをしたあと、四五人で雑談しながら、舞台の壁にはるポスターを書いていた。演出や装置の連中ばかりで、演技者で残っていたのはぼくだけだった。男たちの中に一人女性が入っていた。新入りの劇団員だったそのひとで、照明の助手をしていたのだ。それはただそれだけのことなのだが、その日昭和二十六年十一月十八日のぼくの日記にはじめてそのひとの名前がのったのだ。
 そのひとは御堂筋の東京銀行大阪支店に勤めていた。淀屋橋を渡ってすぐのところだったので、裁判所からはほんの五分位で行けた。勤め先が近かったから劇団のことでの連絡などで電話したり逢ったりするようになった。
 十一月末、前に上演した作品を再演することになり、初演の頃まだいなかったそのひとに、その台本を貸してあげた。返してもらう約束の日そのひとから「朝裁判所へ行ったのですけど、部屋がわからなくて帰ってしまいました」と電話があった。「もう一度持って行きますから」と言ってくれたが、勤務中ぬけて出るのはぼくの方が自由だったので「いいですよ、ぼくの方が取りに行きます」と、そのひとの銀行へ出かけた。劇団外で逢うのははじめてだった。
 そのひとに心ひかれはじめていたし、格好よく見せたい気持や、職場をのぞいてみたいという思いがぼくにはあった。
 銀行の裏の通用口にそのひとは待っていた。台本を受取り双方から殆ど同時に「すみませんでした」と声が出て、お互いに笑い出していた。仄かなしあわせ……という思いがあふれた。
 髪は短めのおかっぱでふさふさとしていた。事実少女だったのだが、本当に少女っぽかった。世間ずれのしていない純情さを感じさせるそのひとだった。濃いグリーンの銀行の制服のせいだけではない肌の白さと、あたたかい微笑みが何より心をなごませるようだった。
 雪うさぎ……そう、そのひとは雪うさぎの少女だった。

(昭和64年1月)

 


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