頭部に爆薬が固定された二人乗りの小型特殊潜行艇「海龍」は、全長十七米、現在の原子力潜水艦によく似た水中翼付きの特攻兵器だった。
昭和十九年四月志願して海軍甲種飛行予科練習生となり、飛行機乗りを目指していた僕は、「特攻」という言葉が日常茶飯事に叫ばれるようになっていた昭和二十年六月、その海龍特攻隊要員に配属された。
特攻要員を集めた倉敷海軍航空隊は、広々した農村地帯の田圃と隣り合わせにあった。門柱は立っていたが塀はなく、浴場もあったが一日置き位の入浴だったので、汗を流しに田圃の間を流れる小川でよく水浴びをした。瀬戸内海へカッター(短艇)を漕ぎ出して、島々の間をぬけ遙か四国の山陰を眺めたりもした。特攻要員と言っても基礎学習や体育などだけで、確実に死に向っているのに実感のまるで無い、まことにのんびりした十六歳の夏だった。
そして八月十五日快晴の日、戦争は終わった。「海龍」艇は、今江田島の海軍兵学校あとの海上自衛隊内に一隻残されている。
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